ひるこの悲劇
―そしてさらなる悲劇―



天の御柱の前で
穴をふさぐことで意気投合した二神は
柱をそれぞれ回っていって出逢ったところで求愛しよう
ということになった。

イザナギは左から、イザナミは右から
天の御柱を回っていき
やがて出逢って、イザナミが先に声をかけた。

「あら、いい男。」

また、なんとストレートな・・・。

そしてイザナギが言う。

「いい女だ。」

イザナギは
「女から先に声をかけるのは、ふさわしくない」
とぶつぶつ言うが
それでも、やることはしっかりやる。

古事記には出てこないが
日本書紀やウエツフミでは登場するエピソードがある。
二神が八尋殿に入ると
どこからか鶺鴒(セキレイ)が飛んできて止まり
尾を上下にピンピコピンピコ動かした。
それを見て二神は
どうやってコトを為すのかを知る・・・という逸話。

うーん・・・青春だなぁ・・・。
神々の権威を重んじる古事記には・・・
割愛したくなるエピソードだなと共感。

さて、このように(?)頑張って子作りをするのだが
生まれてきた子は「水蛭子(ひるこ)」であったので
葦船に入れて流してしまったと書いてある。

え、川に流したの!?
すごいことするね・・・。

古事記には、ただそれだけしか書かれていないので
解釈のしようもないのだが
実は、ヒルコを巡っては所説あり
また、所伝説もある。

それだけ想像を掻き立てるインパクトがあった
ということだろうか。

個人的には「ひる」のような子という
ストレートな解釈でいいんじゃないか、と思うのだが。

だって、これまでずっとストレートに表現してきて
ここだけ含蓄を持たせるなんて
ちょっと違和感がある。

日本書紀でも
話の順序こそ違えど、同様に流されている。

流されたヒルコが恵比寿さまになる伝説があるが
室町時代の創作だとされている。

ところでかわいそうなヒルコだが
実はもっとかわいそうな子がいる。

「淡島(あわしま)」である。
アワシマはヒルコの次に生まれたが

「これもまた数には入れず」

ただこれだけの記述で捨て置かれているのである。
こちらの方が、さらにインパクトが大きい気もする。

それにしても、なぜ二度にわたって
「子作りの失敗」を強調する必要があったのだろうか。
このことについては
後段にてやや触れたいと思う。